
はじめに
FPSにおける死体撃ち問題は、FPSゲーマーコミュニティにおいて定期的に話題に上がる
つい最近も、とあるプロプレーヤーが有名配信者に死体撃ちをし炎上、更に配信を盛り上げようと撃ち返した有名配信者についてまとめサイトがろくに中身も見ずにまとめたせいで配信者側も炎上というなかなか香ばしい出来事があった
そもそも死体撃ちとは倒したプレーヤーの死体に追加で弾をぶち込む行為であるが、これがわかりやすく善悪を決めれるものではなく、人によって様々な意見がある
答えが存在しないという点において、ほとんどイデオロギーとか哲学みたいなものなんだけど、一応ちょっと考えてみることにする
どの辺から攻めようかなーと悩みながらふと本棚を見たらちょうどよさそうな本があったので、この本の一部を参考に考えてみることにする
マイケル・サンデル これからの正義の話をしよう 今を生き延びる為の哲学 鬼澤忍=訳
この本自体はアホみたいに有名だから、「名前は聞いたことある」って人は多いのではないだろうか
現実問題と哲学を絡めて問題提起しているから哲学に興味がない人にとっても結構おもしろい本だ
元が大学生向けの講義だからそんなに難しい話はしていないが、この本を買った時の高1の私にはよくわからなくて積み本になり、大学で厚生経済学とか政治学をかじった後に見返してやっと理解した覚えがある
この人自身はコミュニタリアニズム(共同体主義)という思想を持っているから、完全に客観的な立場に基づいているかというとそういうわけでもないので注意
さて、この本では、とある政治的問題に人々が賛否を示す時、功利主義、個人的な自由主義、美徳という3つの観点が関わっていたと序章で解説している
ここでは、死体撃ちにその考えを頂戴して考えてみようと思う
死体撃ちを功利主義の観点から考える
功利主義というとなんだか難しそうだが、
「コミュニティの構成員みんなの気持ちよさを足して、それが一番大きくなるのがいいよね!!」
というシンプルな考え方だ
最大多数の最大幸福という言葉は聞いたことがある人も多いと思うが、それがこれだ
みんなの気持ちよさを足してという部分がポイントで、同じコミュニティに90人のA民族と10人のB民族がいたときには、B民族の考え方を無視して90人のA民族の意見を採用する方がコミュニティ全体の幸福度は高くなる

このように、少数派の意見が切り捨てられやすいという問題点が功利主義にはある
少々残酷な考え方だが、功利主義の立場から見れば、有名なトロッコ問題も一瞬で解決できる
トロッコ問題

・トロッコが制御不能になった
・トロッコが向かう先は二股に分かれており、片方には5人が、もう片方には1人がいる
・このままではどちらかにトロッコが進み、5人もしくは1人が死んでしまう
・あなたの目の前にはどちらにトロッコを進ませるか選ぶことができるレバーがある
・さて、あなたはどんな行動をとるだろうか
現実にそんな状況になったら何もできないという人が多いはずだが、功利主義の立場から見れば、1人の命より5人の命のほうが利益の総和が大きいので迷うことなく1人側にトロッコを走らせることができる
ただこれもまた色々なバリエーションがあって、例えば5人が老人で1人が子供だった場合とか、5人のほうがブサイクニートで1人のほうが超優秀なイケメン科学者だった場合なんかでは、コミュニティ全体が得られる利益の総和は変わってくる
命の価値は平等なのかという問題もあるし、功利主義と一口に言ってもまたそこで哲学的な問題にいくつも直面する
まあ前提はこんなものとして、死体撃ちについて考えよう
功利主義において、死体撃ちは否定される

功利主義では構成員みんなの気持ちよさを足さないといけないから、撃つ側と撃たれる側の、利益と不利益の総和を比較すればいいと考える
ここでは議論を簡単にする為に、『撃つ側は死体を撃つことで利益を得られ、撃たれる側は不利益を得る』『一度の死体撃ちによって撃つ側が得られる利益と、撃たれる側が得る不利益の値が同じ』という前提で話を進める
利益と不利益の値が同じなので、焦点は人口の比較になる
功利主義の立場から言えば、人口が多い側の意見を尊重することがコミュニティ全体の利益の総和を高くすることに繋がるというわけだ
ここで死体撃ちをする人の人口としない人の人口を比較すると、まあ間違いなく死体撃ちをしない側の人口のほうが圧倒的に多いだろう
そもそも死体撃ちなんてそんなに頻繁に遭遇しないわけで、多めに見積もって撃つ人:撃たない人=1:10の割合で存在するとしたら、
100回の死体撃ちで得られるコミュニティの利益の総和は100、不利益の総和は1000なので、めちゃくちゃ不利益が多くなる
ということで、前提を絞った上ではあるが、功利主義の立場から見ると死体撃ちは否定されるべきという結論に至る
個人的な自由主義=リバタリアニズムから死体撃ちを考える

続いての視点は、リバタリアニズムだ
リバタリアニズムを簡単にいうと、『他人の自由を侵害しない限り、俺たちはどんなことをしてもいいんだ! 何者にも縛られない!! 自由だ~~~!!』
という思想だ
彼らは政府による課税も財産の没収だと考えるなど、とにかく自分の財産や権利を重視し、それを侵害するものを敵視する
この視点から死体撃ちについて考えよう

リバタリアニズムの立場からすると、死体撃ちはルールでも認められている行為であり、それを止める権利は誰にもない
「死体撃ちをする自由もあるし、死体撃ちが不快ならゲームを辞めるという自由もあるじゃないか!」ということで、基本的には死体撃ちを許容する方向に議論が進む
ここでのポイントは、死体撃ちが他人の権利を侵害しているかどうか、という点だ
リバタリアニズムの前提は『他人の自由を侵害しない限り』なので、他人の権利への配慮が必要になってくる
例えば日本人には、快適な環境で生活する権利『環境権』が与えられている( 環境権は憲法13条『幸福追求権』を根拠とする)
だから、「俺は金持ちだからここにでかいビルを建てる!!!」という人がいたとしても、「それだと俺の家に日光が当たらなくなるだろ!環境権を侵害している!」ということで、リバタリアニズムの観点からもビルの建設を中止させることができる
死体撃ちをする側も、『撃たれる側の権利』について考える必要があるということだ
当然死体撃ちは人々が快適にゲームをする環境を破壊していると考えることができる
ただ、それが具体的にルールとして規定されているわけではないし、『撃つ側の人の権利』とどちらが優先されるのかは微妙なところだ
憲法で規定されていることだけが権利なのか、自然権はゲームコミュニティの中には及ばないのか、この辺もまた哲学の問題になってくる
リバタリアニズムの観点から見れば、死体撃ちは許容されて良いと私は思う
美徳や正義
ここが本日のメインディッシュかと思いきや、最終的には『正義なんてもんは個々人の思想によって異なるからご自由に』という極々当たり前の結論にいきつく
一応美徳とか道徳とか正義とかいうクッソ曖昧なものの観点から、死体撃ちについて考えてみようと思う
ここに関しては書籍でも結論が出ていないので、私のオリジナルの考え方を書いてみる
拷問は不正義なのか
まずさらっと拷問について考えてみよう
自国に悪影響を及ぼす人間を捕まえたのなら、拷問をして素早く情報を聞き出したほうが利益が大きいから、功利主義的な観点から見ると拷問は推奨されるべき行為のはずだ
しかし、現在拷問は条約により禁止されている
なぜだろうか
基本的人権の尊重などもあるが、突き詰めるとこれに関しては論理的に説明できるような根拠はなく、人間の道徳的な部分によって定められたものと考えたほうがいいだろう
このように道徳というのは、時として強い拘束力を持つこともある
しかし、拷問を禁止するのは果たして本当に正義なのだろうか?
それは独善的なものではないのだろうか
本当は拷問を解禁することが正義という見方もあってしかるべきではないのだろうか
この答えは誰にもわからない
みんな違ってみんないい
戦場で1000人殺した兵士が英雄となり、歩行者側の飛び出しが原因で1人殺してしまった人が犯罪者になるように、正義とは個人の思想や時と場合によって大きく捻じ曲がるものであり、絶対的なものでは決してない
だとしたら、美徳や正義を根拠に何かを論じることは不誠実なことなのだろうか?
私個人としては、正義をベースに何かを論じることは決して不誠実ではないと考える
『我々は結局のところ個人の正義観や道徳観でしか世界を見ることはできず、他人とその価値観を完全に共有することはできないのだから、とりあえずそれをぶつけ合うしかない』というのが私の考え方だ
要は、『みんな違ってみんないい』ということだ
死体撃ちに関しても、やりたい奴はやればいいし、やりたくない奴はやらなければいい
「死体撃ちする奴は人間のクズ」という意見も正しいし、「死体撃ち如きで怒る奴は器が狭い」という意見も正しい
自発的な意見は自ずとその人にとっての正解である、というのが正義をベースにした時の私の見解です
自分の頭で考えよう
ここまでが、一応マイケルサンデルの本に照らした考え方だ
できる限り客観的に書いたつもりだから、とりあえずここまでの意見を見て自分なりに考えをまとめてみてほしい
ここからは、私個人の主観をバチバチに盛り込んでいく
私の正義観に基づく見解
一部の読者さん的にはここからが本編だろうか
ここからはあくまで私個人の考えを書いていくので、自分の頭で考えたい方はブラウザバック推奨
今から書く意見はあくまでも私個人の正義であって、これが絶対的に正しいわけではないので注意
人にされて嫌なことはしない
仮に法律で禁止されていないとしても、私の中で正義に反する行為というのはたくさんある
例えば人種差別的な発言をしたり、弱者を大勢でいたぶる行為等は私の正義に反する
もっと小さいところでいうと、飲食店でクチャクチャ音を立てて食べるとか、夜行バスでみんなが寝ているのにしゃべるという行為も私の正義に反する
これら正義感の根底にあるのは、自分がされて嫌だと感じるかどうかという点だろう
自分が海外に行って人種差別をされたら嫌な気持ちになるし、隣でクチャクチャ音を立てられると○したくなる
『人にされて嫌なことはしない』と誰もが子供のころマッマに教わるわけだが、私はこれを正義のベースとしているようだ
煽り行為は悪である
まず前提として、煽り行為は相手を不快な気持ちにさせることを目的としているわけだから、私の中での正義に反する
サッカーなどのスポーツでは挑発行為はルールで縛られていることが多いが、ゲームにおいては煽り行為が明確にルールで禁止されていることはまれだ
その為、挑発も戦術の一部という考え方も一理ある
実はサッカーでも、挑発はイエローカードで済み一発では退場にならないから、あえて反則を犯す覚悟で相手を挑発するのも戦術の一部と言えなくもない
しかしこれは、私の正義観には反する
試合と関係ない部分で相手を不快にさせ、それで試合を有利に進めるというのは美しくない
現にサッカーでは、そのような行為をした選手は世間から大きなバッシングを受け、後にイエローカード以上の制裁を受けることがある
(これはサッカーが観衆から金をもらうことで成り立つプロスポーツであり、観衆の正義が重要視されているからだと思う)
ゲームであっても、人間とのコミュニケーションであることに変わりはない
ゲームでも私は同じ考え方だ
インターネットを介しているとはいえ、画面の向こうにいるのは生身の人間であるからして、
生身の人間に挑発行為を行い相手を不快にさせるのは、私の正義に反する
現実世界では私と同じレベルの正義観を持つ人でも、ゲームになると途端にそのレベルが下がる人も多く存在するから、その辺も個々人の正義による
余談:実際に煽り行為を受けたときの私の反応
なんか今までの流れ的に私は煽り行為に対してめちゃくちゃ顔が真っ赤になっていると思われていそうなので弁解しておくと、さすがにもうオンラインゲーム歴12年を超えているので、煽り行為程度で腹を立てることはない
死体撃ちをされても、パーティ内で笑って終わりだ
ゲームを始めたばかりの中学生くらいまではキレてたが、高校生になって落ち着いた
単純に煽り行為に慣れたというのと、精神的に成熟してくる年齢の要素も大きいと思う
死体撃ちしてもいいじゃん派の意見にツッコミを入れよう

ここからは、アンチ死体撃ち派として、死体撃ちしてもいいじゃん派の意見に色々ツッコミを入れていく
①死体撃ちは挨拶だ/俺は死体撃ちは煽り行為だと思わない
これは結構聞く意見ではあるが、私的にはナンセンスだ
「死体撃ちは挨拶である」と言っている時点で、『死体撃ちは煽り行為であるという前提をコミュニティが共有していること』を知っているわけだ
その上で死体撃ちをするということは、その人たちを不快にさせる行為をあえて行っているということになる
ここも結局は正義観の問題になるが、自分の死体撃ちをしたいという欲求の為にその他大勢の人を不快にさせて良いという考え方は非常に独善的のように私には思える
文化を決定してよいのは、個人ではなくコミュニティだ
日本では誰もがやる『麺をずるずるすする』という行為は、海外ではかなりのマナー違反で、誰もが不快感を示すタブーなものだ
「俺は煽りだと思っていない」と言って死体撃ちする人のやっていることは、イタリアのトラットリアでパスタをずるずるすすった上で、「日本じゃすするのがマナー!!」と言っているようなもんだ
アホ丸出しである
端的に言ってそういう日本人には○んでほしいし、逆に日本に来て麺をすする音が不快とかぬかす外国人にも○んでほしい
②死体撃ちくらい気にするなよ
たかがゲームなんだから、死体撃ちくらい気にするなよという意見
少し過激になると、「死体撃ちを気にするような奴はゲームに向いていない」という意見もある
これに関しては、気にするなという言葉を使っている以上『死体撃ちをされて嫌な気分になる人がいる』という前提がないと成り立たないわけだから、死体撃ちを許容すべき理由にはなっていない
当然ながら、死体撃ちする側のプレーヤーが反論として使うには論理が破綻している
とはいえ、「気にするな」という意見自体は完全に正しい
現実にもネット上にも、自分と異なる意見を持った人や頭のおかしい人間は想像以上にたくさんいるわけで、そんな奴らにいちいち腹を立てていたのでは身が持たない
FPSに関しても、死体撃ち如きに腹を立てて冷静さを失ってしまうのはもったいないことだ
③海外ではプロゲーマーもやっている

これも割とよく聞かれる意見だ
「気にしてるのは日本人だけ! 海外では挨拶のようなもんだよ!」
果たしてこれは本当だろうか
海外でも死体撃ちはバッドマナー
まず海外では死体撃ちはどう思われてるの?ってことだが、普通に海外でもマナー違反であるという認識がなされている
海外プロが死体撃ちをした時にバッドマナーというコメントで埋め尽くされ軽く炎上したという件があるようだし、(ネタかもしれないけど)
死体撃ちはリスペクトに欠ける行為だと配信で発言する海外プロも多くいるようだ(動画は確認できず)
また一般人の中にも、プロが死体を撃つことを快く思わない人がいる
他にも、海外のバッドマナープレイズという動画の中で死体撃ちが載せられている
この辺の情報を統合すると、少なくとも海外でも死体撃ちはバッドマナーであり不快に思う人が一定数以上はいることがわかる
外国人がやっているから俺もやっていいというのはそもそも論理的に破綻している
外国人がやっているから俺もやっていいという論理の問題点は、そもそも外国人はマナー違反をしないという前提がどこから来たのかということだ
仮に海外では死体撃ちの絶対数が日本より多いとしても、単純に外国人はマナー違反をする人が多いというだけで、決して我々日本人も一緒にマナー違反を犯してよいという理由にはならない
海外プロは、死体撃ち=バッドマナーという前提を利用して試合を盛り上げる
海外でもバッドマナーとして捉えられている死体撃ちをなぜ海外プロが行うかというと、それは試合をよりエキサイティングなものにする為だ
ボクシングの試合中に、相手に対して「おらどうした打ってこい」と挑発をすると、試合会場は大きく盛り上がる
本来は誉められたものではないはずの挑発も、適切なタイミングで行えばプロの試合としてより素晴らしい見世物になる
海外プロの死体撃ちもこれと同じことだ
会場のテンションを盛り上げるために、あえて相手を挑発するような煽りプレイが競技シーンにおいて行われることに私はなんら違和感を覚えない
逆に死体撃ち=バッドマナーという前提がなかった場合会場は一切盛り上がらないわけで、むしろ「海外プロは試合中に死体撃ちをして会場を盛り上げる」という主張は、死体撃ち=バッドマナーであるという説を後押ししているに過ぎない
空気を読むということ
現状は、死体撃ちはマナー違反ではないと勘違いしている読解力のない人が大勢いる
よく考えてほしいが、その辺の県大会くらいのボクシングの試合で「おら打ってこい!!」と相手を挑発したらどうなるだろうか
ただのマナーの悪いクッソ寒い奴になるだけである
要は空気を読めということだ
空気を読む能力がないのなら、死体撃ちなんてしないほうがいいんじゃない? と私は思ってしまう
④マナーなんて守らなくてよくね???
「たかがゲームなんだからマナーなんて守らなくていいだろ!楽しんだもん勝ちでしょwww」というのも結構聞かれる意見だ
私の常識に照らし合わせるとおおよそ理解できるものではないけれど、論理的には今までの意見の中で唯一筋が通っている
『マナーなんて守る必要がない』という前提を置くのであれば、確かに何をしても問題ない
なかなかの異端児で、正直嫌いじゃない
ただ当然そんな考えを持っている人は相当な少数派だと思うから、一般的なコミュニティに属することは不可能だと思ったほうがいい
私の意見はあくまで私の意見
さて、私の意見としてはこんなものだ
基本的に死体撃ちに嫌悪感を抱いているし、やっている奴はチンパンジーの親戚だと思っているが、別に死体撃ちをやめろと言っているわけではない
死体撃ち否定派に対し、「なんて頭の固い馬鹿なんだ」という意見を持つことも自由である
各々の正義に照らして考えてほしい
最後に
まあ長々と語ってしまったわけであるが、私の言いたいことは一つだけ
『あなたの正義に従え』
ということである
私の意見も正しいし、あなたの意見も正しい
みんな違ってみんないいのだ